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涼やかな音に、は足を止めた。
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旋律になれない音に目を細める。一つ一つ、確かめるように鳴らされる、音。空気を震わせる明瞭さは、音を親しむ者の手によって弾かれたのだろうと推測で き た。
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「そういえば八千穂ちゃんが何か言ってたっけ」
音が呟きに唱和する。人気のない廊下にそれは良く響き渡った。静かなのは当然だ、今は授業中なのだから。どこの教室からか、教鞭を取る声が耳に届く。
「一番目のピアノ」
澄んだピアノの音。暫し考えるように髪をかき回し、やがて悠長に歩き出した。
「怪談、ねえ」
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九龍妖魔学園紀Ylno irxxar閑話
「おとと(ひとと)」
鍵盤を弾く。メロディラインを成すつもりは毛頭なかった。ただ、一音を耳に入れ、消えればまた違う音で空気を震わせる。その繰り返しだった。
低い音が柔らかく空間を支配し、緩やかに消える。
高い音が鋭く鼓膜を刺激し、滑らかに落ちる。
消えた次の音を求め、再び取手の、異常な程に長い腕が鍵盤に伸びる。指は数個の鍵盤を滑り、黒鍵に行き着いた。
弾く。
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響き渡った一音に心地良い安堵を覚える。フェードアウト。自然と消えかける優しい音を追った耳が。
「ピアノが好きかい若人。や、それなら音楽を紡ぐかな」
「うわッ?」
柔らかな声を拾い上げ、心臓が飛び出すかというくらいに驚いた。
弾かれたように振り返る。扉に手を掛けたままの姿勢できょとんと目を見開いている男子生徒が立っていた。そのままパチパチと瞬きを数度繰り返し、苦笑。 強 い琥珀色の光が和らいで滲む。
「そんな驚くとは思わなかったんだ、ごめんね。ただ」
こん、と扉を叩いて。
「ノックするのは野暮かと思って」
面白そうに笑みを零した。大人びたそれは学生服になんとなく───合っていないような印象を持つ。若人、と呼び掛けられたせいだろうか。何を思って彼が そ う呼んだのかはわからなかったが、そのことには大して違和を感じはしなかった。
まるで保健室の主、劉瑞麗のごとく、全ての事象を抱擁できるのではと錯覚するような空気。
ただ、大人だ、と感じた。
沸き起こる警戒。一歩下がると、身体が軽くピアノにぶつかった。背中に感じる硬質に胸のざわめきが緩和される。動揺を鎮めるために、黒い楽器の背にそっ と 手を置いた。
───これは本当に、警戒?
ざわり、と問い掛ける何かを黙殺して、重たい口を開く。
「音楽室に・・・何か用かい。悪いけれど、用がないのなら」
「音がね、聞こえたからさ」
冷たく響いた声を気にもせずに、男は無造作に室内に踏み込んだ。静止する間もなく近くの椅子に腰掛ける。姿勢悪く机に肘をつき顎を乗せて、遠慮の欠片も な い態度で居着いてしまった。
「初めまして。3−Cへの転校生の、です。君は?」
穏やかな、カウンセリングを彷彿とさせる調子で彼は言った。
。転校生。二方向から知らされていたその名前を口中で反復する。保健室仲間の皆守に聞いた「得体の知れない変な奴」。本人は気付いていないよう だったけれど、妙に気に入っているらしい「転校生」への文句は、取手には好印象を与えていた。
そしてもう一方は。
唐突過ぎた遭遇に答えられない取手を、急かすでもなく見詰める。遠回りの促しに思わずぼそりと音を紡いだ。
「取手、鎌治。転校生、君は」
「とりで?どう書くの。要塞?」
「いや、取る、手で、とりで、と」
「ああ、トッテ。トッテかまち」
「とりで、かまち、なんだけど」
控えめに訂正する取手を和やかに無視して、変わった名字だね、と笑う彼こそ変わったリズムの持ち主だと思う。子供のように矢継ぎ早に質問を浴びせ満足し た かと思えば、ふふ、と優しく大人めく。早く、遅く。彼は・・・は、優しく恐ろしく、穏やかに激しく、展開の激しい音楽を思い起こさせた。
今はそう、例えばトランクイッロ。
「授業サボったら暇なんだ。暇過ぎて死にそう。構って。トッテは、音は好き?」
それは静かな、穏やかな、やすらかな。早口だというわけでもないのに口を挟む隙はない。NOを言えない気配、呼び名に文句を言うにも流されそうな気配 に、 取手も大人しく腰掛けた。ピアノと対になる、黒い椅子。ぎしり、と調節部が悲鳴を上げた。
「音?曖昧だけど、それが人の声や、街の騒音。そんな日常の雑音なら・・・そうだね、好きだよ。ところで授業をさぼるのは」
「いけないことかもね。でも俺は、今授業で教えられてる知識は、俺がすでに知っていることだと知っているから、まあいいんじゃないかなと思うんだよ。さ て、音の話題だ」
暖簾に腕押し。何でもないことだと流され、それでも非難の視線を向け続けると、暖簾は軽く困ったようだった。
「・・・うん、理由がない限り、サボらない方が良いとは思ってるんだよ、これでも。でもねえ。しっかり持ってる知識のそのままの上書きは意味ないで しょ? それよりはこうやって、新たな人脈を築く方が、ほら、きっと大事───というか、トッテもサボってんじゃん。非難される筋合いはねえぞ」
「ぼ、僕は、気分が優れなくて・・・ここは、落ち着くから・・・」
多少据わった目を反対に受けて口篭る。その、と弁明を続けようとする取手に対し、彼はあっさりと身を引いた。
「ああ、情緒不安定、というやつかな。そりゃまあ仕方ない。授業受けて悪化することもあるらしいしね。うん。責めてごめんね?」
スムーズに言い分が認められるとは思ってもみなかった。慌てて謝罪を否定すると、嬉しそうに笑みを零す。誘導された感を受けたが、不思議と不快にはなら な い。ひっくるめて丸め込まれた気分だった。
さて、と。三度は話題を取り上げる。
「トッテは『音』をどう思う?定義は、まあ、トッテが言ったような世界に溢れる雑音から、音楽まで。つまり全てさ。曖昧で良い。好き、から一歩踏み込ん で、理由を教えてくれるかな」
教師然とした口調にも荒波は立つ気配さえ見せない。むしろささくれた心を癒すように───これでは本当にカウンセリングだ、と思った。
「世界の音は───僕にとって、どこまでも音楽を連想させるものなんだ。音、といえば音楽。言葉を紡ぐ旋律も、僕には多様なメロディに聞こえるよ」
の音楽に導かれて、半ば無意識に言葉を生み出す。
音程。強さ。込められた感情から、メロディを成す。軽やかに笑う声は、こちらまで明るくさせるショパンの「子犬のワルツ」。校内で聞かれる耐え難い罵声 は、即興による失敗演奏。
「時にそれは僕の心を弾ませてくれて、その時間はとても心地良い。けれど時には決して心地よいだけではないそれらのメロディは、悲哀をも運んでくる。だ か ら───人のいる場所は、僕を不安定にさせる」
「感受性が豊かなんだねえ。人を不安定にする、どこまでもどこまでも不安定な音。音の洪水はもしかしたらトッテを押し流してしまうかもしれない。それで も 好き?」
「好き・・・好きだよ。それでも、好きだ。それがなかったら僕は僕でいられない。音楽は、僕の根本を支えるものだからね」
静かに交わされる旋律がどこに行き着こうとしているのか掴めない。手の中から放たれた己の言葉すら行き場を迷っている。
が首を傾ぐ。さらりと黒髪が流れた。
「音楽が好き。ならトッテは、根本から人が好きなんだね。うん。俺も人は好きだよ」
空気を震わせる吐息と共に話が飛んだ。あまりにも飛んで、関連性のかの字も見えない。
人。
取手は一言でも、それを好きだと言ったのか。
彼は意味ありげにまた笑う。
「世界の中で何よりも音を生み出すのは、人だよ。人はものを生み、音を作り、音を鳴らす。音楽を作るのは?音楽を歌うのは?そんな酔狂なのは人だけだ」
言って、指先で机をコンコンと叩いた。不規則にリズムをつけてスタッカートに。一際強く掌で音を立てると、ひらりとその手を振って、場に静寂を戻した。
「人だけさ、音楽を音楽として作るのは。戯れに意味のない言葉を交わす、その声はどう聞こえる?俺が今こうして連ねる言葉はどう響く?安らぐか、痛む か、 混乱するか、それとも整理されるか。それを感じて、楽器で、口で。紡ぐものがトッテの好きな音楽さ。もしそれが不快でないのなら、トッテは音と一緒に人が 好きなのさ。作り手を嫌いで音楽は好き。それは、作り手の感性の否定であり、それを好きと感じた自分の否定。つまり好きと感じた音楽の否定だね。矛盾だ ろ?」
音の本流。
「さて、話題を音楽から音に戻そう」
混乱した頭を整理する間もなく、は滔々と音楽を奏でる。
「音が好き、嫌い、というのはね、実はあまり意味のない問いかけなんだ。音が嫌いなんて言う奴は話をしなければいい。そうすりゃ取り敢えず目の前に音は 生 まれないですむんだからさ。という訳で、もしトッテが『音は嫌い』とでも答えたら、俺は早々に退散する気だったよ。勿論、嫌味とかじゃなく、気を遣って ね」
言葉は、それこそ音楽そのものだった。意味を考えるより先に直感で解釈する。初めて聞く音楽は、取手の興味を引き込んだ。
正直、言葉の意味を追えていたかは自信がない。
「音は好きとか嫌い以前に、大事なものだ。トッテの好きな、楽を成す前提。それも大事だけど、その前に、なければこうした会話も成り立たない。好きだ、 と 意思を表明することも残念ながらできないわけで」
「でも、それは何かに書けば、伝わるだろう?」
「伝わるかな。ああ、ここが、今この瞬間が好きだなと思ったときに、すぐ書ける?あらかじめ表明意思を用意しておいても、ニュアンスが違ったらもう違う 言 葉だ。書かれ終えた言葉では強く弱くもわからない、優しく恐くも表現できない。それを示す字体での何種類を用意しても、修飾語が付けたくなるかもしれない ね。つまるところこの世界には、紙に書かれた、完結したものでは表現できないものが多すぎるんだ」
音は───完結しない。同じ人間が、あるいは次の人間が。音を引き継ぎ、十人十色に装飾し、広がる。色を変えて、音楽は続けられる。
「そうだなあ。例えば」
思考する。黙ったまま目を閉じた取手に説明不足を感じたのか、は戯れの言葉を切って息を継いだ。
「───とりで」
子供を呼ぶように。
愛しい者に向ける優しい響きで呼ばれた「本名」は、取手の息を止めるのに十分なものだった。
目を閉じていた分、聴覚が働いた。喫驚に瞳を抉じ開ける。悪戯な笑顔を湛えたまま、彼はだらしなく椅子に腰掛けてそこにいた。名を呼んだ声を、その人が 出 したとは到底思えない。
「紙に書かれた名前は、込められた感情を伝えないだろう?」
実験台に使われた自分の名前。
「だから俺は、人の名前を呼ぶのが好きなんだよ。君、とか、お前、とか。大事なときにはそういう呼称は使うべきじゃないと、思ってる」
実験に使うなと抗議したいような、それでも良いからもう一度呼んで欲しいような。曖昧な感情を抱いて、取手は肯定も否定もせずに苦笑を返した。
「それならちゃんとした読みを大事にして欲しいけれど」
「それとこれとは話が別だなー」
大人と子供の中間点で、彼はへらりと笑った。
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「ああ、声だ。呼んでるね」
「え?」
ひとしきり雑談を交わして。が起き抜けの猫の体で立ち上がった。
耳を澄ませば確かに聞こえる、彼の名前を呼ぶ声。気だるそうな男の声と、弾んだ明るい声。どちらも、羨ましくなるくらいに柔らかな音だった。
「そっか、もうお昼なんだねえ。俺はもう行かせて貰うけど・・・トッテも一緒に食べる?」
見返す琥珀に惹かれながら首を横に振る。声は明るかった。自分にはきっと。
「遠慮しておくよ。また、いつか・・・」
「話も、お昼もね。じゃあまた」
颯爽と身を翻す様を見詰めて、僅かな胸の痛みに驚いた。一緒に行きたかったのだろう。自分は。けれど、きっと、向かない。
のような明るさに、自分は向き合えない。の優しさに、自分は流されるしか、できない。
俯いた取手に、思わぬ最後の声が届く。
「ああそうだ」
扉を開けて背を向けたままで呟くように声を漏らした。彼のような人間には珍しいのであろう逡巡と、間。視線だけをこちらに向けたは。
「俺は、音の大事さを、兄に教わったんだけどさ」
意味深に、口の端を僅かに吊って。
「トッテは───どうして音楽が支柱になったんだろうね」
疑問を。
「はーい、はいはい、ここにいるよー!」
外に叫んで駆け出したに、取手は返す答えを思い出せないまま脱力した。
(どうしてって)
ざわり、と問い掛ける何かを黙殺して。
男は無造作に───に踏み込んだ。
不思議と不快には。
彼は。
(人が、好き?僕が?ならそれは)
でもそれは。
落ち着いた心が不安定さを取り戻す。
───ああ、もう一度。
場違いな思いを抱いて、消えた背中を追って視線を彷徨わせた。開きっぱなしの扉が涼しい風を取り込む。暗い音楽室に差し込んだ光が目に沁みた。
男は無造作に、ここに踏み込んだ。
扉を閉めるかこのままでいるか。
考えなければいけないと、何故だかそう強く思った。
トッテさんはロマンチストさんだと思う
だから同じくロマンチストなミナモリと気が合うんだと思う
そうだそうに違いないとモリ好きの友人に力説したら怒られました
いいじゃん。
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