時折、神楽の精神は輪から外れる位置に立っている。
嬉しいことがあったとき、しかしどこか冷えた瞳で感情を表す。別にその事態が本当は嬉しくない、という訳ではない。それは良くわかる。ただそれが、何か
別の感情を伴っているのだ。
その瞳に宿るモノが何を示すのか僕にはわからない。
否・・・わからないフリをしているのかもしれない。例えばそれは───
「悟飯くん、10秒経ったよ〜?」
ふと我に返る。階段一段分高い位置に立つ神楽が訝しげにこちらを見ていた。その脇に佇む悟天も、不思議そうに目を丸くして首を傾げている。別の場にいる
トランクスも恐らく同じような反応をしているだろう。ゴメンナサイ、と告げると三人は戦闘態勢を整えた。
神楽提案による修行代わりの「高鬼」。最近チビ二人が嵌っている遊びでもあるそれは、鬼ごっこに猶予時間の付いた様なものだ。
相手が高い所にいる間は、鬼は捕まえられない。しかし同じ場所に10秒以上いたら、その時には捕まえることが許される。捕まえるには、掌を相手の身体に
触れさせなければならない。ルールはそれだけだ。
「じゃあ、行きます」
とん、と軽く地を蹴る。動作からは思いもよらないスピードで二人が立つ足場に接近した僕に、驚くような殊勝な人はいない。
6、7、8。
ゆっくりと数えつつ手を伸ばすと、神楽はさっさと後退した。段を上がり、足を屈める。逃げる悟天に狙いを定めたのがわかったのだろう。意識は向けている
のに、そんなに注意していないのが神楽らしい。
数回の攻防。悟天を捕まえるのは楽だった。続いてトランクスも捕獲は早い。神楽が言うには「戦略性がないから逃げ道がわかりやすい」だそうだ。
「なっさけないぞー、チビ共」
けけけ、と意地悪く笑う姿に向かう。純粋な「戦い」になら負ける気はしないのだけれど、こういった駆け引き事は油断ならない。
「9、10!捕まえ───」
「チビとはちーがうのーッ!」
伸ばした手が空を切った。その対応だけに賭けたのだろう行動は恐ろしく素早い。沈んだ細身に手の軌道を修正する。瞬間、両足首に神楽の手が掛かった。
ザッと砂を擦る音。滑った身体は簡単に足の間を潜り抜ける。そのまま引っ張られて軽く、けれど確かにバランスが崩れる。空振った右手側に走る神楽に悔し
くなって、無理矢理に身体を起こしてそちらに走・・・ろうとした。
出来なかった。
やんわりと、悪戯めいた声が耳に届く。嫌な考えを思い起こさせる言葉を連れた音は、酷く残酷に聞こえた。心臓が波打つ。
わからないフリをしているのかもしれない。例えばそれは───
「ここから先に来ちゃ駄目だよ」
明確な拒絶。
たたらを踏んだ僕が見上げると、琥珀の瞳が輝いていた。下を見る。ああ、そうか、段差だ。理由を見付けて愕然とした心を宥める。それでもなお脈は戻ら
ない。
遊びのセリフが、別の場所に重なった。時折、神楽の精神は輪から外れる位置に立っている。嬉しいことがあったとき、しかしどこか冷えた瞳で。ただそれ
が、何か別の感情を伴って。その瞳は。その冷たさが指し示す感情は。
『境界線を跨いではいけないよ』
「残念でしたー!」
瞬いて神楽が踵を返す。一つの段差が距離を広げる。5、6、7。早く時間が過ぎないと、どんどん遠くへ行ってしまう。
『世界が違うのだから、私は帰るのだから』
考えないようにしていた言葉が脳内で鳴り響いた。
『この線を消してはいけないよ』
瞳が語る「拒絶」の意志は、今も消えてはいない。いつか帰るが故の線引き、境界。それを崩したら、帰れなくなるのだろう事実を神楽は知っている。だから
こそ、いつもあんな目をしている。
呆然と立ち尽くす僕に、再び問い掛けの声が届いた。弟の幼い声にぼんやりと視線を返す。
僕の視界から神楽が消えた。
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